2008年05月30日

電荷。

電気の負荷ですね!

電荷(でんか, Electric charge)は、物質や原子・電子などが帯びている電気やその量であり、電磁相互作用の大きさを決めるものである。単位はクーロン(単位記号C)で、シャルル・ド・クーロンに由来する。量は一般に記号Qで表され、スカラー量の一つである。

電荷には正と負の二つの状態が存在し、それぞれ正電荷、負電荷とベンジャミン・フランクリンによって名付けられた。原子を構成するものでは陽子が正電荷、電子が負電荷、中性子は電荷を持たない。電子の持つ電荷量の絶対値を電気素量といい、それを記号eで表わすと陽子は+e 、電子は-e 、中性子は0の電荷をそれぞれ持っている。イオンを表わすMg2+やOH-などはそれぞれ+2eや-eだけ帯電していることを示す。素粒子であるクオークは(-1/3)eまたは(+2/3)eの電荷を持っている。なお反粒子はその対になる粒子と正負が逆で絶対値が等しい電荷を持つ。たとえば電子の反粒子である陽電子は+eの電荷を持ち、陽子の反粒子である反陽子は-eの電荷を持つ。

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通常、物質や空間の正電荷と負電荷の量は等しく、中性を保たれる。これは原子レベルでは陽子の個数と電子の個数が等しいことを意味する。何かの原因によって正負の電荷のバランスが崩れた時、その物質や空間は帯電しているという。帯電した物体は電場を作り出したりそれに影響を与える。 クーロンの法則によると、電荷を持った物体は電荷の符号が同じものどうしは反発し、異符号のものは互いに引きつけあう。その力はそれぞれの電荷の積に比例し距離の2乗に反比例する。

電荷がある面を単位時間に通過する総量が電流の大きさであり,その次元はC/sとなる。これはA(アンペア)であり、クーロン量Q[C]は電流I[A]と時間t[s]の積に等しい。つまり Q = It となる。国際単位系(SI)ではAを基本単位に選んでいるので,Cは組立単位となる。
(以上、ウィキペディアより引用)

デンカと言うんですねー!

2008年05月27日

プロパガンダって何だ!?

プロパンガスとか全く関係ありませんよ!?

プロパガンダ(Propaganda)とは国家や政府、政権政党が権力のもとに特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する国策宣伝。有事下の情報・心理戦の技術の一つであり、しばしば政治的な内容や圧力を持つ。ラテン語のpropagare(繁殖させる)に由来する。

関連した語のアジテーション(Agitation)は、気持ちを煽り、ある行動に仕向ける事の意であり、ラテン語のagere(動かす)に由来する。

概要
権力機構である国家、そして政治には宣伝が付き物であるが、現代のプロパガンダの宣伝手法は、ロシア革命直後のソ連(en:Peter KenezのThe Birth of the Propaganda State;Soviet Methods of Mass Mobilization 1985)で急速に発達し、ソ連は「世界初の宣伝国家」とも呼ばれる。また、戦時ナチス独裁下のドイツでもプロパガンダの手法は、大いに活用された。時代の趨勢によって仮想敵国が変化することもあり、東西国家の冷戦期には各家のテレビからは東西両陣営のプロパガンダ放送が流れるようになった。

具体的な手法

日本人をカリカチュアライズした、アメリカ人の勤労意欲を刺激する為のプロパガンダポスター、第二次世界大戦中。訳:どうぞ休みを取って下さい!レッテル貼り - 攻撃対象となる人や集団、国、民族にネガティブなイメージを押し付ける。例:修正主義者、ブルジョア・反動、劣等民族、独裁、全体主義、守旧派、抵抗勢力、過激派・夢想家、テロリスト、売国奴、NEET
華麗な言葉による普遍化 - 対象となる人物や集団に、多くの人が普遍的価値を認めているような価値と認知度を植え付ける。例:革命・革新、改革、自由、平等、新体制、ユートピア、純潔(な民族)、愛国、郷土
転移 - 多くの人が認めやすい権威を味方につける事で、自らの考えを正当化する試み。例:神、国王、天皇、選ばれし者、救世主、天の声、運命、英雄、常識・世間(日本の場合)など
証言利用 - “信憑性がある”とされる人に語らせる事で、自らの主張に説得性を高めようとする。例:関係者、当局、権威筋、○×大学教授、研究者・研究家、天皇(日本の場合)
平凡化 - コミュニケーションの送り手が受け手と同じような立場にあると思わせ、親近感を持たせようとする。例:同志、公募
カードスタッキング - 自らの主張に都合のいい事柄を強調し、悪い事柄を隠蔽する。本来はトランプの「イカサマ」の意。情報操作が典型的例。マスコミ統制。例:大本営発表、国営放送、政党機関誌
バンドワゴン - その事柄が世の中の権勢であるように宣伝する。人間は本能的に集団から疎外される事を恐れる性質があり、自らの主張が世の中の権勢であると錯覚させる事で引きつける事が出来る。例:「?が今流行っている」「巷で話題の?」「知らないと乗り遅れる○○」「?と皆が言っている」(衆人に訴える論証)
尚、J.A.C.Brownによれば、宣伝の第一段階は「注意を引く」ことである。具体的には、激しい情緒にとらわれた人間が暗示を受けやすくなることを利用し、欲望を喚起した上、その欲望を満足させ得るものは自分だけであることを暗示する方法をとる(The techniques of persuasion 1963)。またL.Lowenthal,N.Gutermanは、煽動者は不快感にひきつけられるとしている(Prophets of deceit 1949)。

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その他の手法については情報操作を参照のこと。
(以上、ウィキペディアより引用)

なんなんだ!?

2008年04月01日

異端審問

イタンシンモン?

異端審問(いたんしんもん、ラテン語:Inquisitio)とは中世以降のカトリック教会において正統信仰に反する教えを持つ(異端)という疑いを受けた者を裁判するために設けられたシステム。異端審問を行う施設を「異端審問所」と呼ぶ。一口に異端審問といっても中世初期の異端審問、スペイン異端審問、ローマの異端審問の三つに分けることができ、それぞれが異なった時代背景と性格を持っている。

なお、魔女狩りは異端審問の形式を一部借用しているが、その性格(異端はキリスト教徒でありながら、誤っているとされた信仰を持っている者であるのに対し、魔女・魔術師(魔法使い)はそもそもキリストを信じないとされる人々であるため全く別種)や実施された地域・時代が異なっているため、異端審問とは別種のものと考えるのが適切である。

起源
異端審問は異端を根絶することを目的としたシステムであり、異端審問所とは異端審問を行う施設のことをいう。初期キリスト教においては、キリスト論など多くの神学論争が行われたが、コンスタンティヌス帝による公認以降、キリスト教とローマ帝国の統治システムが統合していくと、異種の教義理解を容認しておくことは統治システムの安定をゆるがすものと危険視されるようになっていった。それ以降、教義について異なる意見が提示された場合や意見の対立が起こった場合はしばしば教会会議や公会議によって討議・判断され、誤謬とみなされた説は異端として退けられた。この過程によってキリスト教神学は徐々に理論化され、確立されていった。このように「正統と異端」という問題では宗教問題という形式の裏に、常に政治問題と権力者の意向を見え隠れさせていた。

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西欧においては西ローマ帝国の滅亡とその後の混乱期においてキリスト教異端問題はあまり取り上げられることはなかったが、12世紀以降西欧の諸勢力が各地において権威の集中化を目指す中で、異端者が再び統治システムの安定を揺るがす危険分子とみなされるようになっていった。

中世の異端審問
12世紀に「中世の異端審問」と呼ばれる最初の異端審問が始まったのは、南フランスにおいてカタリ派がその影響力を拡大したことが直接の契機であった。先に述べたようにしばしば異端問題は政治問題であり、地域の領主たちが治安を乱すとして個別に地域内のカタリ派の捕縛や裁判を行っていたが、そういった従来の方法をまとめた形でだされた1184年の教皇回勅『アド・アボレンダム(甚だしきもののために)』によって教会による公式な異端審問の方法が示された。そこで定められた異端審問は各地域の司教の管轄において行われていた。司教たちは定期的に自らの教区を回って異端者がいないかを確かめるというものだった。

教会には一般的な司法権や処罰権がなかったこともあって、このシステムはそれほど厳密に適用されていなかったが、その後世俗の領主たちが教会の異端審問を補助する形で、異端審問で有罪判決を受けたものを引き取って処罰するようになると様相が一変した。特に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は第4ラテラン公会議が採決した異端審問のシステムを帝国法に取り込んで法制化し、自らの権限において最高で死刑にまで処することができるようにした。1230年代に入ると従来の司教たちが審問を行う形に替えて、教皇が直接任命した異端審問官が各地を回って異端審問を厳密に実施するようになった。このような形式を整えたのは当時の教皇グレゴリウス9世であり、異端審問官は当時学問の盛んな修道会として知られたドミニコ会員から任命されることが多かった。当時の異端審問がどのように行われていたのかを知るための資料としては1307年から1323年までトゥールーズの異端審問官を勤めたベルナール・ギー(仏:Bernard Gui、羅:Bernardus Guidonis ベルナルドゥス・グイドーニス)の著した『異端審問の手続き』などから知ることができる。

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この種の異端審問制度はドイツやスカンジナビア諸国など北ヨーロッパへも拡大していったが、ほとんど定着せず、場所によってはより穏健な形のものに変容していった。また、イングランドでは異端審問はほとんど行われなかった。中世の異端審問がどれほどの規模で行われたのかは正確に知ることは困難だが、現代の人々が想像するほど頻繁に大人数の処刑が行われたとは考えにくい。記録によれば、中世異端審問が最も活発に行われた1233年に南フランスの異端審問官に任命されたロベール・ル・プティは数百人に火刑を宣告したが、刑罰が過酷すぎるという理由で1年目で解任された。有名なベルナール・ギーは異端審問官を16年間の長きに渡って勤めたが、死刑を宣告したのは40件に過ぎなかった。
(以上、ウィキペディアより引用)

すごい時代だったんですねー。。